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title:オヤジからのキラーパス

俺の友人の一人に、行方不明になっている者がいる。

彼とは同じ高校に通ったのだが、親密になったのは大学に入学してからのことだった。高校時代まではむしろ目立たない存在だったその彼が、大学入学後から急にモテはじめた。決して二枚目とか美少年というタイプではなかったのだが、俺たち男には分からない、女性の琴線に触れる何かがその頃の彼に芽生えたのかもしれない。

大学卒業後、彼は一流大企業に就職し、大阪の支店に配属された。彼のモテ人生はかの地でも続いたようで、ほどなくして会社でも美人と評判だった女子社員を射止め、華燭の典を挙げた。披露宴で見た新婦は、可憐で男に尽くす女性に見えた。まさに、彼が好きなタイプの女性だった。

次に彼に会った時にはその奥さんと別れて、二人目の奥さんと結婚していた。相手は彼が担当していたお得意先の令嬢だとのことで、やはり最初に結婚した女性とどことなく似た雰囲気があった。再婚後、彼は会社を辞めて義父に出資してもらって会社を興した。彼が東京に出張に来る度に呼び出され、数人のクラブのホステスと一緒に食事をし、同伴で店に入り酒を呑んだ。テーブルにはスコッチのボトルと並んで弁当箱のように大きな携帯電話が乗っていた。

しばらくして、2人目の奥さんとも別れて3度目の結婚をしたと風の噂に聞いた。3度目ともなると、正直言って「またか…」と思った。その頃から彼と俺の間に行き来はなくなっていった。

最近、ある友人の口から久々に彼の名前を聞いた。その内容は俺にとって、いささかショッキングなものだった。その友人の話によると、彼は3度目の結婚の後、いろいろな事業に手を出したが、そのどれもがうまくいかなかったという。そして、資金繰りに困ると友人に頼み込み、次々と借金を重ねていったらしい。中には俺の常識では考えられないような相当な額を貸した友人もいるとのことだった。話を聞くと、彼が興した事業とはどこか怪しげで、中には明らかにネズミ講と思われるようなものもあった。それに融資したとなると、貸した方もある意味自業自得である。そして、彼は友人数人に多額の借金を残したまま姿をくらまし、今も行方不明とのことだった。

高校時代の、どちらかというと地味なイメージの彼からは想像できないような、その後の人生である。中学時代から彼を知るその友人は、やはり大学時代に彼の転機があったのではないかと言う。思い当たる節がないでもない。その頃、彼の中で何かがカチリと音を立てて外れたのかもしれない。




Feeded by morning star
【2007/01/18 13:12 】 Old Days | コメント(4) | トラックバック(0) |

今週月曜日は、成人の日だった。いかにも着なれていない振袖やスーツ、袴を身に纏った若者をたくさん見かけた。どの顔も一様に幼く見える。俺が二十歳の頃はこんなじゃなかったのになぁ、と思いつつ彼らを眺め、遠い昔に思いを馳せる。あ、いや。そういえば、俺も十分幼かったか…。

今から20数年前の成人の日。俺は悪友たちと連れ立って、夜の街に繰り出した。成人の日を迎えたことがうれしかったわけではないが、とにかくこの日ばかりはいろいろと大目に見てもらえそうな気がして、ドンちゃん騒ぎを繰り広げるつもりでいた。ま、うまくいけば同じ成人仲間の女の子とお友達になってやろうという下心もなかったわけではない。もちろん、俺ではなく一部の悪友の中に。

「お兄さんたち、どう?3,000円ぽっきりで呑み放題。かわいい女の子がいるよ」。この言葉に下心満々だった悪友の1人がひっかかった。「振袖姿の女の子とお友達になるより手っ取り早いし、3000円じゃん」。この手の店の、しかも、こうして呼び込みのいるところのいかがわしさは十分感じていたのだが、いかんせん、実際に行ったことはない。「いいじゃん。とにかく1回行ってみようぜ」という悪友の言葉にみんなが引きずられるように、フラリと入店してしまった。

ま、後のことはお約束通り。かなり昔に「女の子」だった女性たちに出迎えられ、下卑たジョークを肴に、まずい酒を呑まされた。で、お会計はもちろん3,000円ぽっきりではない。そんな金は持ち合わせていないと言うと、有り金全部おいて行けと言う。その夜は、みんなタップリ呑む気でいたので、手元にはいつもより多い現金があった。しかし、ここでその金を吐き出す気は毛頭ない。みんな、さもそれが有り金のすべてだというふうに金を出す。「もっと出しなさい」。「もうない」。そんなやり取りの末に、俺たちはやっと店を出ることができた。俺はといえば、成人の祝いに親からもらった図書券を足して勘弁してもらった。おかげで現金被害は一番少なくてすんだ。図書券で呑み代を払ったのは、後にも先のもこのときだけである。

キャッチにひっかかった悪友を責めながら表に出ると、通りではサラリーマン2人組が先ほどの呼び込みを責めている。「ふざけんな、このオヤジ!何が3,000円ぽっきりだ!ええっ!」。どうやら俺たちと同様にボラれた客が、呼び込みを吊し上げているらしい。つまらない散財を強いられて頭に来ていた俺たちも、すかさずサラリーマンに加勢する。結局、俺たちは呼び込みに金を返すことを約束させ、再び店へと向かうことになったのだった。

エレベーターの扉が開く。呼び込みが店の奥へと駆け込む。後を追い、サラリーマンがエレベーターを降りる。それを出迎えるように、ひと目見てその筋の方と分かるお兄さんたちが立ちはだかる。「酒呑んでおいて、何か文句あんのかぁ!こるらぁっ~!」。あっという間に、拉致されるサラリーマン。俺たちは、必死になってエレベーターの「閉」ボタンを連打した。

その後、かのサラリーマンたちがどうなったかは、知る由もない。というか、想像はつく…。こうして20数年前の成人の日、俺はありがたくないお勉強をして、ひとつ大人になったのだった。まったくもって、幼かった…。



Feeded by morning star
【2007/01/10 16:55 】 Old Days | コメント(8) | トラックバック(0) |

何しろ父親の転勤の関係で5つもの小学校に通ったので、小学校時代をほとんど「転校生」として送ってきたような気がする。新しい学校に馴染み、そろそろ「転校生」の肩書きも取れるかというころにまた転校、というようなことを繰り返してきた。

転校生としてどこの学校でも経験したのが、ガキ大将からの洗礼であった。俺が転校を繰り返していた高度成長期には、新学期になるたびに転校生がクラスに3、4人はやってきた。にもかかわらず、ガキ大将は、他のやつではなく、俺のところにやってくるのであった。それもよそのクラスからわざわざである。「今度、○○から転校してきた○○というのは、お前か」。俺にしてみれば、「またかよ…」という感じである。ガキ大将曰く「お前はカッコつけている」「生意気だ」「偉そうにしている」。初対面であるのにもかかわらず、決まってそんな言いがかりをつけられる。ここでひるんだり、卑屈になると、その後の新学校生活は悲惨なものになる。弱虫のレッテルを貼られ、その汚名は次に転校するまでそそがれることはない。決して下手に出てはいけない。

が、当然その代償はある。ま、大抵の場合、ガキ大将の喧嘩の相手をさせられる破目になる。大勢が見守る中で、新参者である転校生にガキ大将としての威厳が通用しないというのは、仲間を牛耳っている身にしてみれば相当都合の悪いことなのだろう。その体面を保つためにも、転校生を懲らしめるのである。こっちにしてみればいい迷惑である。

決まって、ガキ大将はカラダがでかい。で、ほぼ間違いなく勉強ができない。しかも、勉強ができない分、でかいカラダにものを言わせて力を誇示しようとするから性質が悪い。か弱き美少年の俺が彼に太刀打ちできるわけもない。ほとんどの場合、一気に組み敷かれ形勢不利な状態に陥るのであった。肝要なのはこれからだった。どんなに形勢不利でも、決して抵抗をやめないこと。相手の10発に対して2、3発の割合でもいいから、とにかく殴り返し続けること。これで、ほとんどの場合、しばらくすると向こうから「この辺にしておいてやる」と言い出し、釈放されるのが常であった。

今の陰湿ないじめと違うのはそれからである。大抵の場合、ガキ大将が俺を狙うことは二度となかった。むしろ、その後友達になって、悪ガキ仲間として一緒にたくさんの悪事を重ねたりもしていた。

喧嘩には、勝てなくても負けないという手もある。転校を繰り返して身につけたことといえば、そのくらいのことか。転校すればそれだけたくさん友達ができて楽しそうだという人もいるが、それと同じ数だけの別れもあった。転校はしたくなかったというのが本音だ。



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【2006/11/27 17:32 】 Old Days | コメント(6) | トラックバック(0) |

世の中には、実にさまざまなコレクターが存在するようである。我々の世代だと、切手や古銭、ペナント、絵葉書などを集めたことがある人も多いのではなかろうか。俺も一時期切手を集めていたこともあったが、所詮子供の小遣いで集めたものである。とてもコレクションと呼べるような代物ではなかった。だが、そんな俺にも近所の悪餓鬼相手に威張れる程度のコレクションならあった。それは、メンコであり、ビー玉であった。とりわけメンコには思い出深いものがある。

当時俺が住んでいた代田橋のあたりには伝説のメンコが存在していた。それは月光仮面の絵が描かれたもので、幾度もの勝負を重ねるうちに不敗のメンコとして近所の子供たちの中で神聖視されていたメンコだった。当時、我々のメンコのルールというのは、勝負をして、勝った方が負けた方のメンコを巻き上げるというものであった。手っ取り早くメンコの枚数を増やしたいときには、ひと勝負5枚ずつをかけて勝負をするというようなこともやっていた。メンコをある種の貨幣として流通させていたわけである。そして、紙幣がその額面によって価値が違うように、人気の絵柄のものや強いと言われているメンコには、1枚で5枚分、あるいは10枚分といった価値がつけられていた。そして、伝説のメンコには何と100枚分という価値がついていた。

俺は毎日のように近所の悪餓鬼相手にメンコの勝負を重ね、せっせとメンコを貯めていった。そして「賭け金」となるメンコが十分に集まったときに、伝説のメンコの持ち主に勝負を挑み、見事これを手にしたのであった。それからしばらくの間、俺は伝説のメンコ所有者としてこれ以上ない満足感に浸っていた。もちろん、所有するメンコが100枚を超える、挑戦有資格者は何人かいた。しかし、だからといってそれを賭け金に勝負を挑んでくる奴は意外に少なかった。やはり100枚は「大金」である。

ところがある日のこと。なんと隣町から挑戦者が現れたのである。伝説のメンコはわが町に棲息する悪餓鬼の間で行き来していたメンコである。それが、負けるとなると、隣町へ流出してしまうことになるのだ。勝負の場には、双方の町の悪餓鬼たちがそれぞれの応援団として集まってきた。大勢のギャラリーが見守る中、勝負が始まる。相手のメンコもかなり強い。なかなか返らない。俺は月光仮面のメンコを何度もアスファルトに打ち付けた。そして、長い勝負の末についに勝利を収めることができたのであった。

普段はお互いにメンコの取り合いをしているわが町の悪餓鬼どもも、素直に俺の勝利を祝ってくれた。いや、単に伝説のメンコの流出を阻止できたことを喜んでいただけかもしれない。俺が勝負で得た100枚のメンコは、その場にいたみんなで分けた。何故か分からないが、そんな気分だった。

それからしばらくして、親父の福岡への転勤が決まった。それまでに集めたメンコやビー玉ともお別れしなければいけなかった。というのも、俺は母親に賭けメンコ&ビー玉を禁止されていたからである。俺は巻き上げたそれらのものを家に持ち帰っていなかった。つまり、そんな大量のメンコやビー玉は持っていないことになっていたのである。俺は毎日の戦利品を藤島君という友人に預ってもらっていた。大量のメンコ&ビー玉を引越しの荷物に紛れ込ますことはできない。俺はそのすべてを藤島君に譲ることにした。あんなに必死になって集めたのに、何故かそのときは惜しいとは思わなかった。全部やるといったら、とにかく全部という気分だった。今にしてみれば、せめてあの月光仮面のメンコだけでも取って置けばよかったと思わないでもない。



Feeded by morning star
【2006/11/22 14:13 】 Old Days | コメント(10) | トラックバック(0) |

今、俺は渋谷のとある横丁の店に足繁く通っている。そういえば、遠い昔、大学時代にも頻繁に通っていた行きつけの店があったのをふと思い出した。それは西荻窪にあった何の変哲もない焼鳥屋だった。

西荻窪界隈には、駅周辺という狭い範囲でチェーン展開をしている、そこそこ名の知れた焼鳥屋がある。俺が住んでいた頃は2軒あったが今はもう少し増えたとも聞く。何しろどの店も狭いので、あふれた客を収容するために2店、3店と増えていったのだと推測される。別に焼鳥が旨くて有名という、そういう類いの店ではない。安く酒が呑める貧乏人のパラダイスとして知られるような店だ。だが、俺がその頃通っていた行きつけの店とは、実はこの店ではない。もちろん、西荻窪に住み始めた当初はその店によく通ったのだが、ほどなく出入禁止となってしまったのだ。他の客と喧嘩して店の人に「二度と来るな!」とたたき出されたのである。もちろん、喧嘩したのは俺ではない。俺の連れの方である。

それ以来、行くところを失った俺は違う焼鳥屋に通うこととなった。それは同じ焼鳥屋でも、先の繁盛店とはまったく違って、朴訥そうな親爺が1人で黙々と焼鳥を焼いているような、寂れた店だった。あまり客も来ず、焼鳥屋だというのに1人文庫本を読んでいても、誰からも訝しがられたり、咎められたりすることがないくらい、のんびりとした店だった。そこには、夕方早くからたくさんの客で賑わう繁盛焼鳥屋の喧騒はない。その店で俺は本を読み、やがて脳がアルコールに浸り、行が進みにくくなったころにお勘定をしてもらい、下宿に帰るのがほとんど日課となっていった。

そのうちに口数の少ない親爺とも少しずつ話をするようになった。客が俺1人というときでも、親爺と話をしながら退屈することなく酒を呑めるようになった。親爺は新潟県の出身で、もとは板前をしていたという。ある日、二人きりになったとき、親爺が包丁を見せてくれた。それは彼が板前時代に使っていたものだった。新聞紙で幾重にも包まれた包丁はどれも見事に研ぎ上げられていた。何となくそれが彼の人柄を物語っているように思えた。包丁一本一本の呼び方と何を切るときに使うのかを教えてもらったのだが、今ではすっかり忘れてしまった。

たまに何日間か店が閉まっている時、親爺は決まって故郷へ渓流釣りに出かけていた。そして、その釣果を持ち帰っては「これはサービスだから」と言って、焼いて食べさせてくれた。親爺の故郷の味は、しみじみと旨かった。持ち合わせの金がなくて店の前を素通りしようとすると、親爺に呼び止められて、ただ酒と焼鳥を振舞われたことも何回かあった。

やがて、俺は大学を卒業して西荻窪の街を離れた。その後、2,3度その店を訪れて親爺との再会を果たしたが、そのうちに自然と疎遠になってしまった。今でもあの店はあるのだろうか。親爺は健在なのだろうか。あの頃は、若かった。いつも金がなかった。大学にもほとんど顔を出さず、何の目的もなくダラダラと生きていた。なのに、意地汚く酒だけは呑み続けていた。あの頃の俺はどうしようもないただのガキだった。それは、今でもあまり変わっていないのかもしれない。



Feeded by morning star
【2006/10/24 17:08 】 Old Days | コメント(10) | トラックバック(0) |