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title:オヤジからのキラーパス

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Feeded by morning star
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俺がフットボールを本格的に始めたのは中学生に入学してからだった。今としたら随分と遅いスタートだが、当時住んでいたところでは少年サッカーチームがある限られた地域にしか存在しなかったので、中学生になってはじめてフットボールに取り組むというのもさほど珍しいことではなかった。

当時のスポーツ少年の典型で、俺も当初は野球部に入部するつもりだった。しかし、俺には野球部員は全員坊主という決まりがどうしても嫌でしようがなかった。そこで坊主頭を回避するために、テニス部に体験入部することにした。今ではほとんど坊主に近い髪形なのに、その頃はいったい何をそんなに色気づいていたのか。ところが、このテニス部というのがとんでもないところだった。新入生は、ただひたすら筋肉トレーニングあるのみ。その年代でそんなことをすれば、百害あって一理なしというのは今では常識だが、当時はそれが当たり前のように行われていたし、いわゆるそのしごきには入部志望者をふるい落とす意味もあったようだ。

ある日の体育の授業のときのこと。体育の先生が俺に声をかけてきた。「どうだ、テニスはおもろいか?」「いいえ、毎日走ったり、腹筋したり、腕立てしたりばっかりで。一度もボールを打ったこともないし、ラケットも買わせてもらえません…」「ほほぉう。どうだ、サッカー部に入らんか。サッカー部に入ったら、その日からボール蹴らせてやるぞ」。その体育教師はサッカー部の監督でもあった。「でも、もうテニス部に入部希望書を提出してしまったので…」「そんなもん、集計は俺がやるんや。書き換えておいてやるわ」「え?は、はい…」。何とも情けないきっかけだが、とにかく、テニス部でのしごきに嫌気が差していた俺は、こうしてフットボールを始めることとなった。

俺が通っていた中学校は、陸上や水泳で全国大会優勝者を輩出するなど非常にスポーツの盛んな学校だった。俺が通っていた当時、陸上男子400mリレーの中学記録はうちの学校が保持していた。しかし、そんな中にあって、俺が入学した当時のサッカー部は突出して弱かった。そこに転任してきて部の監督に就任したのが、俺に声をかけてきた体育の先生。彼は、前年度優勝校から我が校へやって来たばかりだった。

はたして、入部してみると、回りはバスケット部、バトミントン部、テニス部など、みんな監督が他のクラブ希望者の中から強引に勧誘してきた者ばかりだった。というか、監督の甘言にのせられて、しごきから逃げてきた奴らばかりだった。そんな1年生を集めて監督曰く「いいか、お前らが3年になった時には絶対に優勝させてやる」。嘘でしょう…。少ないとはいえ、他の中学校には地域に少年サッカーチームのあるところもある。彼らは小学校のときからサッカーを始めている。それに比べて我々は、他のクラブから寄せ集められてきた未経験者ばかり。その言葉を真剣に受け止める奴は一人もいなかった。

約束通り監督は練習に参加した初日からボールを蹴らせてくれた。無茶な筋トレやしごきの類も一切なかった。俺が一時膝の成長痛に悩まされたときには、きっちりと練習を休まされた。が、トレーニングが楽だったかと言えば、やはりそれなりにきつかった。怒鳴られたり、時に拳骨をもらうこともあった。ただ、自分たちでもフットボールが見る見る上達していくのが分かったし、また、それが故に俺たちはますますフットボールにのめり込んで行った。

俺は1年のときから試合に出してもらったが、結局チームは1勝もできなかった。卒業する3年生に勝利の味をプレゼントしてやろうと監督が組んだ、やはり1勝もできなかった学校との卒業記念試合すら負けた。2年生になると俺たちの年代からも数人がレギュラーになった。試合は勝ったり、負けたり。前の年よりは少しは強くなっていた。ベスト8か16ぐらいが最高成績ではなかったか。そして、3年生がチームから引退すると、いよいよ入学時に監督が「優勝させてやる」と言った我々の年代がチームの中心となった。レギュラーの中で、1人の転校生と1人のサッカー部生え抜きを除くと、あとは全員一年生当初に他のクラブから引っこ抜かれてきた奴らばかりだった。

ところが、新チームの今後を占う上で大きな意味を持つ市の新人戦、我がチームはあえなく2回戦で敗退してしまった。PK戦の末の敗戦だった。俺は、最初のPKキッカーとして登場し、これを外してしまった。それが伝染したかのように、後続のキッカーも続々とPKを外して行った。その試合後、ベンチ入りしていた全員が坊主にさせられた。坊主が嫌で野球部に入らなかったのにサッカー部で坊主にさせられるとは思ってもみなかった。それからは、以前にも増して要求レベルの高い練習が始まった。日を経るにつれ、毎日曜日ごとに組まれた練習試合でもほとんど負けないようになっていった。そしていよいよ中学生活最後の大会である総合体育大会に臨むこととなった。

まず、1回戦をレギュラーの何人かを温存しつつも、危なげなく勝つ。迎えた2回戦はまたもやPK戦にもつれ込んでしまったが、今度は俺もきっちり決め、これをものにする。その後は、とんとん拍子で勝ち上がり、そのままの勢いで見事優勝!!市のチャンピオンとなったのである。その後、我がチームは市の代表として県大会に駒を進めた。市大会を制して自信をつけた我々は、県大会でも相手を蹴散らし、すんなりと決勝戦にまでたどり着いた。決勝で待っていたのは、市大会の決勝戦のときと同じ相手。正直言って、「県大会優勝」の文字が脳裏に浮かんだ。が、結果は0-1の惜敗。あえなく返り討ちにあってしまった。ほとんどの者がそうであるように、俺たちの中学でのフットボールも敗戦で幕を閉じた。

それでも中学でのフットボールを振り返るとそれなりの達成感と満足感があった。何しろ最初の年に1勝もできなかったチームが、わずか2年ちょっとで市大会優勝、県大会準優勝という結果を残したのだ。クラスメートの中には、陸上女子100m・200m全国二冠の女の子とか、水泳男子長距離で全国3位の奴もいて、彼らに比べればその成績は実にささやかものではあった。しかし、俺にとっては十分に誇らしいものだった。俺をフットボールに誘ってくれた、中原先生には心からお礼を言いたい。

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【2006/10/05 19:31 】 Old Days | コメント(8) | トラックバック(0) |

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