title:オヤジからのキラーパス

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黄昏時。電車の揺れに会社帰りの疲れた身を委ねていると、不意に沿線の家の夕餉の光景が眼に飛び込んでくることがある。たとえばそれは、決して大きいとはいえないマンションの、これまた小じんまりとしたベランダの窓に切り取られた、どこにでもある一家団欒の風景。おそらくそれは、家族が一日のうちでいちばん幸せな気分に包まれる時間に違いない。にもかかわらず、その光景に小さく胸が疼くのは何故だろう。

人様の暮らしぶりを心ならずも覗いてしまったという後ろめたさなのか。その食卓のあまりの慎ましやかさに胸を突かれたのか。はたまた、まだ幼かった自分が家族と共有したほのかに温かいひとときへのノスタルジーなのか。それとも、今まで自分がそのような時間をあまりにおろそかにしてきたことへの改悛の情なのか。そのどれもが違うような気がする。あえて言うなら、まだ幼き我が子を見つめているうちに、そのあまりの儚さに思わずギュッと抱きしめたくなる、そんな感覚に似ているかもしれない。

「庶民」とは一部の特権階級を除いた、その他ひとつの大きな塊ではない。一人ひとりが、ちっぽけで、脆くて、でも、かけがえのない大切なものを、必死に守りながら身を寄せ合って生きている。政治に携わる者には、確かにそれなりの知識も、経験も、時には度胸も必要だろう。だが、いちばん大切なのはか弱き存在を思いやれる感性だ。今の政治家には、そんな当たり前の、そしていちばん大事なものが抜け落ちている。

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【2006/09/27 15:37 】 Politics | コメント(12) | トラックバック(0) |

大学時代に家庭教師のアルバイトをやっていたことは以前にも書いたが、そのほかにも輸出用自動車の船積みや首都高速道路のヒビ割れ調査など変わったアルバイトもいろいろと経験した。中でも最も変わったバイトと言えば、成人雑誌の読者投稿文の執筆というものだろう。

これは友人のアキオから紹介された仕事だった。当時アキオはアルバイトでビニ本のカメラマンの撮影助手を務めていた。いろいろと役得もあったようだが、ここでは書けない。そのアキオが仕事の関係で知り合った成人雑誌の女性編集長がちょっとした文章の書ける人間を探していると言う。何でも、その雑誌では毎号テーマを決めて読者からの投稿文を募集しているとのことだった。しかし、発行部数も少ない、いわゆる「エロ本」にわざわざ投稿してくるような物好きはいない。そこで、女性編集長自らがせっせと読者投稿文をでっち上げてきたそうだが、それにもいい加減疲れたというか、アイデアも枯渇してきたということで、読者層に近い書き手を探しているとのことだった。う~ん、俺はその雑誌の読者層に近いのかね、アキオよ。

話をさらに詳しく聞くと、原稿用紙10枚ぐらいの文字量で数人分の投稿文を数日中に書けとのこと。ま、何かを書いてお金がもらえるというのも初めての経験だったし、成人雑誌の女性編集長という存在にも興味をそそられるものがあったので、それを引き受けることにした。で、今回のそのテーマとは、「僕の初体験」…。

それから数日の間、俺は乏しい知恵と経験を絞って、いかにも読者が好みそうな初体験をいくつかでっち上げた。酒屋のアルバイトでビールを届けたらそこの奥さんに誘惑されたとか、クラブ活動の帰りに部室でいけないことに及んだとか、我ながら「ベタだなぁ」と思うつくり話を原稿用紙にしたためた。

そして、締め切りのその日。俺は女性編集長と新宿のとある喫茶店で待ち合わせた。やってきた女性編集長は、ひどく投げやりで、かといってさほど深刻さの感じられない、不思議な厭世的雰囲気を漂わせていた。これがこの業界の人たちに共通する独特の匂いなのか。ただ、会う前に俺がいろいろと想像していた「成人雑誌の女性編集長」に、このタイプは入っていなかった。

彼女に原稿を差し出す。彼女はそれを受け取ると、ぷぅ~と大きく紫煙を吐き出しながら原稿用紙の上に視線を走らせる。ひと通り読み終えた彼女が口を開く。「ま、大体こんな感じでいいんだけどねぇ…」。いいんだけどねぇ?「ひとつぐらい、話として面白くなくてもいいから、普通でリアリティのあるのがあるとよかったんだけど」。はぁ…。「ねえ、この中に○○君の初体験の話は入ってる?」「いいえ…」。女性編集長は俺の眼を覗き込みながらこうのたまった。「なんだ、それを書けばよかったのに。きっとリアリティも出たと思うよ」。そんなもん晒せるか。彼女の視線を避けるようにテーブルの下に視線を落とす。その先に彼女の足が見える。サンダルからはみ出した親指の爪の先に黒い垢のようなものがたまっていた。リアリティ…。と俺は心の中で呟いた。



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【2006/09/26 14:37 】 Old Days | コメント(12) | トラックバック(0) |

今日は、取引先の新任のお偉いさんにご挨拶ということで珍しくネクタイを締めてきた。ネクタイを締めたのは、今年はじめにあったある会社の設立記念パーティー以来か。ここ数ヶ月、Tシャツ姿で生息してきたので、ジャケットにボタンダウン、ネクタイ、スラックス、プレーントゥというフル装備は甲冑を纏っているが如く重く、窮屈なことこの上ない。

朝、直行で先方への挨拶を終え、昼過ぎに出社するとみんな一様に怪訝な表情を見せる。これまでも何かあるたびにネクタイ姿で出社しており、さほど珍しいことではないはずなのだが。それだけ最近はネクタイ頻度が少なかったということか。俺の格好を見るなり、「どうしたんですか?」「何かあったんですか?」「どこへ行ってきたんですか?」と聞いてくる。この夏、一度だけ思い切って短パン姿で出社してきたときですら、何事もないかのように俺のそのいでたちをスルーしていた連中がだ。ま、着ている本人がこれだけ違和感を感じているのだから、見ているほうの違和感は相当なものなのかもしれない。

そういえば、再来週にもネクタイを締めなければいけない予定が入っている。慣れないネクタイをあえて着用するということは、そのような気遣いが必要な人と会ったり、そのようなシチュエーションに身を置かねばならないことを意味している。ネクタイを締めるたびに、俺は憂鬱な気分になる。こんな社会人もいるのだ。



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【2006/09/25 16:47 】 Diary | コメント(10) | トラックバック(0) |

いきなり尾籠な話で恐縮であるが、日本のトイレはつくづく贅沢だと思う。温水シャワーにビデ、乾燥機能、便座ヒーター、フタの自動開閉など、まさに至れり、尽くせり、機能てんこ盛り、である。世界でもこんなにトイレにこだわる国民も珍しいのではないだろうか。来日したマドンナが、ホテルで便座に座った際にそれが温かいことにえらく感動したというのは有名な話である。たかだか、便座ヒーターでだ。それぐらい彼我のトイレ事情には差があるようだ。

その世界の最先端を行く日本のトイレに、またしても新機能が付加されたようである。男性の小用時に、なんと“目標”が点灯するというものだ。何でも、小用時に便座を上げると、便器内に緑色の光が照射され、飛び散りの少ない“狙いどころ”を示すことで、使用時の汚れを軽減するということらしい。

う~ん。目標があるだけで、果たして飛び散りが軽減できるのだろうか。射撃にも的はある。だからと言って、誰が撃っても当たるというものではない。当然である。肝心なのは“腕”だ。的じゃない。アームのようなものが出てきて、ナニを支え、狙いを定めてくれるというなら話は別だが、そもそもそんなもの欲しくもない。これまで、さまざまな機能を付加することで進化を遂げてきた日本のトイレだが、これは明らかに無用の長物。と言うか、機能として成り立っていないと思うのだが…。

もちろん、ある人にとって無用であっても、ある人にとっては必要ということもあるだろう。何しろこの便座、希望小売価格が135,450円というから、ステータスとして見せびらかせたいという御仁には有用なアイテムになるかもしれない。そんなことより、俺としては何とかしてライターを無用の長物にしたい。…って、見事に失敗しているし、俺の禁煙。



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【2006/09/22 19:19 】 Diary | コメント(8) | トラックバック(0) |

「呑み屋で政治と宗教の話はタブー」とはよく言われることである。だが、なにせ昨夜のことである。居合わせた客との話は自然と昼間の自民党総裁選で安倍氏が勝利したことに及んだ。

勝ち馬に乗りたいという浅ましい猟官運動に支えられて生まれた総裁などクソ食らえだ。抵抗勢力が払拭されて無抵抗勢力だらけになってしまった大政翼賛会的自民党にも不安がある。機会の平等をおざなりにしたままの、ゆがんだ自由競争社会。そこから派生する階級の固定化、格差拡大という現象にも大きな危機感がある。俺はこれらのことを素直に口にした。もちろん、みんな同じ思いであろうという思い込みも、どこかにあった。ところが、だ。風向きがおかしい…。

これらに対する不安、不満を吠えれば吠えるほど、それは俺個人のひがみややっかみ、被害妄想に過ぎないとすり替えられていく。どうやら今宵のお相手は、俺が世の中のことをあまりにシニカルに、そして批判的、悲観的に見すぎるきらいがあると決めてかかっている節がある。確かにそういう面があるのは否定しない。当たり前だ。この世の中でどうしたら楽観的になれるのだ。彼らには、現状や先行きに対する不満や危機感はないのだろうか。ま、皆さん勝ち組の方々ですからねぇ…。

昨夜のことは、呑み屋で大声で政治談議を繰り広げる無粋な若造に対する、人生の諸先輩からのありがたい戒めであると受け取っておこう。彼らが今の日本に対して「大きな不満も危機感もない」と言うのであれば、それこそ階級分化、格差拡大の証左であろう。あるいは、「あるけれど、それを口にしたところで始まらない」と言うのなら、もはや日本は『美しい国』どころか、『醜い国』への一本道を邁進中ということになる。



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【2006/09/21 18:15 】 Politics | コメント(13) | トラックバック(0) |

幼稚園からの帰りのこと。一緒に帰っていた友達が、八百屋の店先で籠からサクランボをつまんでポイッと口の中へ入れた。唖然とする僕を見ながら、彼はこう言った。「いいんだよ、これ。食べても」。へぇ、そうなんだ。僕は彼に倣ってサクランボを口にした。おいしい…。ひとつでは収まらなくなる。ひとつ、またひとつ。口の中へと放り込む。その時、八百屋のおばちゃんの怒声が響いた。「こら!食べるならお金払ってからッ」。ビックリする僕に友達がひと言、「○○ちゃん、食べすぎだよ」。

こういうこともあった。ある日、僕はおもちゃの10円玉を握り締めて、駄菓子屋へと向かった。「これ、ください」。今度はちゃんと、お金はある(つもりだった)。「ごめんね、これじゃ買えないのよ」「どうして」「これはホンモノのお金じゃないからね」「これ、10円だよ」。そんなやり取りをかなりしつこく続けたのだろう。いつの間にか家に連絡したらしく、しばらくすると母親が迎えに来た。「こういうホントのお金じゃなきゃ、モノは買えないのよ」。そう言いながら、母親はお店のおばあちゃんにお金を払って駄菓子を買ってくれた。母親に手を引かれながら帰る途中、おもちゃの10円玉を見つめながら僕は思った。「こんなにそっくりなのに、どうしてこれじゃダメなんだろう。本物の10円玉をつくれる人はいいなぁ」。

今から40年以上も前、八戸で幼稚園に通い始めた頃の話だ。俺が、生まれて初めてお金というものを意識したのは多分この頃だ。

これはいわきでのことだから、小学校に入学したころだと思う。その頃僕は毎日10円の小遣いをもらい、それでくじを引いたり、駄菓子を買ったりしていた。近くでお祭りがあり、露店が並んだ日のこと。母親は今日は特別だといって、いつもの倍の20円ずつ、弟の分と合わせて40円を僕に握らせてくれた。いつもより贅沢な気分で人ごみの中を歩きながら、僕は最初に10円のものに眼をつけた。しかし、店を回っているうちに、どうしても20円のものが欲しくなってしまった。いつもの小遣いでは買えない金額である。これこそ祭りの日の贅沢である。かといって最初に眼をつけた10円のものも捨てがたい。そこで僕は弟に5円のくじを2回引かせ、自分は20円のものと10円のものの両方をゲットした。「いいか。お兄ちゃんはこれとこれのふたつだろう。○○ちゃんもくじを2回引いてこれとこれをもらったよね。一緒だね」。そんな文字通り子供騙しの論理で弟の小遣いを搾取した。20円のものが何で、10円のものが何であったかはさっぱり思い出せないが、金額のことだけは今でも鮮明に覚えている。

お金のことを意識し始めてからたったの2、3年で、こんな意地汚さだけはしっかりと身に付けていたようである。今でも思い返すと罪の意識にきりきりと胸が締め付けられる。

先ごろ日本語版がリリースされた『Google Earth』 で、昔住んでいたところを回りながら当時のことをいろいろ思い返しているうちに、金にまつわるつまらない思い出に辿り着いてしまった。これも、月末のせいだからだろうか。ま、金に困っているのは何も月末に限ったことではないのだが…。




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【2006/09/20 17:03 】 Old Days | コメント(16) | トラックバック(0) |

昨日、久々にうどんを打った。なんといってもこの3連休のメインイベントである。朝食などに時間をかけてはいられない。ささっと簡単な朝食を済ませ、9時半ごろから作業を開始。まずは、水と塩を計量し塩水をつくる。これを粉とさっくりと合わせ、まとめたらボウルに入れ、布巾を掛けて寝かす。30分ほどすると粉に塩水がなじんで、先ほどよりしっとりとまとまりやすくなっている。これを取り出し、生地が滑らかになるまで10分ほど捏ねて、再びボウルの中へ入れて落ち着かせる。しばらくたったら生地をスーパーのビニール袋の中に入れ、上から足で踏む。生地が伸びたら、折りたたんでまた踏む。これを数回繰り返すと、次第に弾力が出て生地が伸びにくくなってくる。これを丸くまとめて、寝かすこと2時間半。この間にだしと天かすをつくり、だしを冷ましておく。最後に、たっぷり休養を取った生地を叩き起こし、仕上げにもう一度踏む。これを麺棒で伸ばして、切り、茹でたものを水にとって、ようやく完成となる。こうして、どうにかうどんにありつけたのは、すでに1時を回る時分となっていた。

今回は子供たちのリクエストで、「ひやひや」でいただくことにした。「ひやひや」とは冷たいうどんに冷たいだしを掛けて食べること。いってみれば、冷たいかけうどんだ。丼にうどんをとり、冷蔵庫で冷やしておいただしを張って、その上に蒲鉾と若布、天かすをのせ、ねぎとおろし生姜の薬味で食べる。茹で上がったうどんを水にとり、ぬめりを落としているときから予感はあったのだが…。う、うまいぃぃぃ!!今までに自分で打ったうどんの中でも3指に入るほどの出来だ!まず、なんといっても麺肌がとにかく滑らかである。乙女の素肌のようにすべすべで唇に心地よい。第一印象がすこぶるよろしい、別嬪さんだ。でもって歯を当てるとこれが、また、たおやかで上品。であるにもかかわらず、簡単にその浸入を許すことなく、むっちりとした弾力で歯をはね返してくる。ふむふむ、性格も申し分ないようだ。あぁ、快感ッ…!子供たちも、「おいしいっ!」を連発する。曰く、「冷凍うどんよりも、おいしい」。これは最大の褒め言葉だ。あれを超えるのは並大抵のことではない。さすがに子供たちも、今夏、食べ歩いた本場讃岐の名店のうどんよりうまいとまでは言わなかったが、当たり前だ。それなら父さんはとっくの昔に有名うどん屋のおっちゃんになっている。

今回、打ってみて「これは…!」と会得したものがひとつあった。うどん屋のおっちゃんに、一歩近づけた感覚だ。うどんは、生地をしっかり踏まないと、立ち食いうどんのような生気のない麺になってしまう。かといってやたら踏めばいいというものでもない。踏みすぎると、滑らかさも弾力もない、ただ硬いだけのうどんになる。素人にはこの踏み加減が難しい。今回は、そのころあいを足の裏で感じることができたのだ。踏まれている生地が「そろそろ、いいよ」と語りかけてくるような、そんな感じ。それに素直に従ってみたのだが、これがドンピシャ。やはり、踏む時間や時間や回数ではないのである。そんなものはコンディションによって変わってくる。最後にものをいうのは、自分の感性である。これまでうまいうどんができたのは、たまたまだったが、今回のは違う。

今回は、暑くもなく寒くもないという気候の中での作業だったので、水や塩の量、寝かせる時間などを調整する必要はほとんどなかった。いわば「標準」で十分だった。勘所は踏み加減だけ。そのことも味方したと思う。今回、足の裏に感じた感触を基準にしていけば、さらに奥深いところへ進めそうな気がしてきた。最近、フットボールでは衰えを隠せない俺の脚だが、まだまだ捨てたものではない。



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【2006/09/19 14:14 】 Foods | コメント(8) | トラックバック(0) |

今週末は3連休である。ここのところ、いろいろとやらなければならないことが重なって、週末ごとにかなり忙しくしていたのだが、久しぶりにひと息つけそうである。土曜日はいつものように少年サッカーでつぶれるとしても、残りの2日はゆっくりできそうだ。そこで久々に、うどんでも打とうかと思っている。

実際に自分で何回か打ってみれば分かるのだが、たまたま「これはいけるな」といううどんが打てても、次も同じようににうまくいくとは限らない。全く同じように打っているにもかかわらずだ。それが大してうまくないものだとしても、毎回同じようなうどんを打つことのほうが難しいくらいだ。香川のうどん屋では、その日の気温や湿度にあわせて塩加減や合わせる水の量、寝かしの時間を微妙に調整するという。どんなコンディションでも、ある一定レベル以上のうどんが打てるようになるには、相当の経験と熟練が必要であると思い知らされる。そういった意味では、うどんを打つのにも、蕎麦を打つのと変わらないくらい奥の深いものがあるのである。

しかし、だ。蕎麦打ち名人に比べて、世間の人々がうどん打ち名人を見る眼はそれほど高くはない。確かに、蕎麦打ち名人といわれる人には、その見た目や物腰もいわゆる職人的で、ストイックで、時に近寄りがたい人が多い。いかにも、といった感じである。それに対して、讃岐うどんの名人は、どこまでいっても、やっぱり、うどん屋のおっちゃんであり、うどん屋のおばちゃんである。うまいうどんを打つのにはそれなりのこだわりもあるだろうに、その薀蓄をひけらかすようなこともない。ま、うどん屋のおっちゃん、おばちゃんにしてみれば、そんなことはあまりに当たり前のことなのだろう。

職人に対する敬意だけではない。彼らがつくるものの値段にも、これまた不可解としか言いようのないくらい大きな差がある。蕎麦打ち名人が打った極上の蕎麦は、下が透けて見えるくらい薄く盛られたものが、一枚千数百円もする。それに比べて香川で最高レベルのうどんを食べさせるといわれる店でも1玉が70円から100円ぐらいか。同じように粉に水を混ぜ、捏ねて打つのに、この値段の差はどこから来るのであろうか。もちろん店構えやサービスには雲泥の差がある。何しろ香川では店が本当に掘立小屋のようだったり、客が自ら薬味のねぎを畑に採りに行って自分で刻んだりするところもあるのだから。それを考慮したとしても、原材料のコストや、ましてやそのうまさに10倍以上もの差があるとは到底思えない。

うどんと蕎麦の間に横たわる差別はこれだけではない。素人が蕎麦を打つと聞くと、人はその人を趣味人であり、粋人であると評価する。一方、うどんを打つ人は、物好きであり、変人、暇人となる。今週末にうどんを打つと書くと、何かしらをカミング・アウトしているような気分になるのは何故だ…。



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【2006/09/15 19:49 】 Foods | コメント(8) | トラックバック(0) |

ここのところ雨の日が続いている。あれは、今から20数年前。ちょうど今のような秋雨のころのことだった。

当時大学生だった俺は、毎週1回バスに乗ってある中学生に勉強を教えに行っていた。いわゆる家庭講師だ。家庭教師といっても何かを教えるわけでもなく、実際は買ってきた問題集をやらせて、所定の時間が来たら答え合わせをするだけといういい加減なものだった。それでも教え子の成績は見る見る上がっていったのだから、もともと賢い子だったのだと思う。イギリス人だというその子の母親は、成績が上がると成功報酬として月々のアルバイト代に加えてボーナスをくれた。おかげで俺は、学期末ごとにそのボーナスを手にすることができた。彼には感謝しなければいけない。

その日も分厚い雲が雨を落とすのをどうにか持ちこたえている、そんなどんよりとした空模様だった。俺はいつものように、いい加減な家庭教師を几帳面に時間通りに終え、バスの停留所へと向かった。停留所にたどり着くのとほぼ同時に、こらえきれず雨が降り始めた。あいにく傘を持たずに出てきていた俺は、雨を凌ぐために停留所前の材木屋の軒先を借りた。程なく、1台の車がゆっくりと停留所に近づいて来る。車はスピードを落とすと、あろうことか停留所のところで停車してしまった。

運転席がこちら側にあったように覚えているから、たぶん外車だったのだと思う。そこに座っていたのは一人の女性だった。年のころで言うと20代後半か。当時の俺にとっては年上の女性である。「停留所に停車するとは、なんて非常識な女だろう…」と思って、見ていると向こうもこちらを凝視している。「……」。知り合いではない。ここで誰かを待っているのか。雨脚が強くなる。雨の向こう側では、一人の女性が明らかに俺をじっと見詰めていた。

高級車の中で佇む彼女と、跳ね返る雨にジーパンの裾を濡らして立ち尽くす俺。二人はお互いに眼も逸らさずに見詰め合っていた。「いったい何なんだ…?」「まさか…!」。はじめは怪訝に思っていた俺の脳裏に、ある妄想が灯る。「こんな人が?」「ありえない…」。彼女の上品な面立ちに、俺はあらぬ妄想を何度も打ち消す。不意に蛮勇に背中を押されて、思わず雨の中を車へと駆け出しそうになる。が、そのたびに脚がすくんで動かない。

そんな状態がどれくらいの時間続いただろうか。少なくとも5分ということはない。俺には10分、いや15分ぐらいあったように思えたが、定かではない。ついぞ、俺の脚が雨の中へ踏み出されることはなかった。やがて車は来たときと同じようにゆっくりと停留所を離れて行った。後方を見やると、バスが来ていた。

走り去る間際、彼女の眼が「意気地なし…」と言っているように思えた。俺は、ひどく惨めな気分でバスに乗り込んだ。惨めな気分にさせられたのは、もとはと言えば自分が勝手に描いた根拠のない妄想のせいなのだが。



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【2006/09/14 16:36 】 Old Days | コメント(9) | トラックバック(0) |

今日、以前つくづく縁がないと思い知らされた超有名老舗鰻屋に行って来た。今度は、何の躊躇もない。事前に値段も調べてあるし、相応の出費の覚悟もできている。何しろ同僚がえらく乗り気である(何だ、やっぱり今回も渋々じゃん…という突っ込みはしないように!)。

前回と同じ轍を踏まないように、12時に店に着く。早くも店内は満員らしく、入口で名前と人数を記入し、近くの椅子でしばらく待つことに。15分ほど待たされて席へ。お品書きを渡される。十分にメニューを吟味する余裕もなく、はじめから決めておいたものを頼む。あれこれ見たところで注文できるものは限られている。何しろ、そういう財布しか持ち合わせていないのだから。もちろんアルコール類は頼まない。この店で酔いのせいで気が大きくなってしまったら、えらい目に会いそうだし…。あ、もちろん真面目な会社員としては、勤務時間中にアルコールを嗜むということはしない(こっちが主な理由だった…)。

待つこと30分。志ら焼が登場する。蒸し上げた鰻をタレをつけずに焼いたものだ。これを塩か醤油&わさびで食す。ご丁寧にも、志ら焼は下にお湯を張ってあると思われる温かい重で出てきた。酒呑みがこいつをつまみながら酒をちびりちびり呑むのに、冷めないようにとの心遣いか(く~っ、酒呑みたい…!)。これを二人してつつく。…うまい。箸で持ち上げるとホロリと落ちてしまいそうなぐらい柔らかく仕上げられている。なるほどね…。こういうのが超有名老舗店の仕事なんだ。舌の上でふわりととろけ、口の中に鰻の香りと旨みが広がる。

志ら焼を食べ終えるのを見計らったように鰻丼が出てくる。こちらには肝吸いと香の物、箸休めの大根おろしがついている。さすがにいちばん安いメニューだけあって、鰻も小ぶりで身の厚さもそれほどではない。何しろ鰻丼である。上品ぶる必要もあるまい。小ぶりとは言え、これまた柔らか~く焼き上げられた鰻とご飯をガッとかき込む。ホロリととけた鰻とタレの染みたご飯が口の中で渾然一体となる。タレは甘さを抑えた、辛めのもの。俺の好みにドンピシャ!である。何しろ柔らかく上品に焼き上げられたここの鰻に合っている。ご飯の最後のひと粒まで綺麗に平らげる。いやぁ~、満足!

高級店で食事することなど滅多にない俺だが、そんな貧相な口でも違いは分かる。もちろん、大阪風に蒸さずに焼いた方がいいという人もいるだろう。だが、この店のように丁寧に蒸し上げて焼いた蒲焼と大阪風の蒲焼を比べるのは少し違うような気がした。同じ卵という素材を使っていても、スクランブルエッグとオムレツが別物であるように、同じ鰻を使った料理でも別物と考えたほうがいいのではないだろうか。どっちが優れているというものでもあるまい。それは好みの問題だ。俺の好みで言うと、酒を呑むならここの鰻かな。ガッツリ飯を食うなら大阪風の方ということになる。

というわけで本日の昼食は、これまで想像でしかなかった超有名老舗鰻屋の仕事というものをたっぷり堪能できた贅沢なものとなった。え?分かてるって。俺たちが今日味わったのは、この店の超初心者コース。一見さんで知ったかぶりするつもりは毛頭ない。さらに上の上があることぐらいは自覚している。いつの日か、ここの数千円する蒲焼やコース料理も食してみたいものである。できれば、「常連」と言われるぐらい何度も。できれば、人様のお財布で…。




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【2006/09/12 18:40 】 Foods | コメント(20) | トラックバック(0) |

ここ1週間来懸案だった、我が家のリビングとキッチンの間にある対面式カウンター下に、2代目の棚がようやく完成した。朝の10時ごろから作業をはじめ、途中昼食をはさんで、出来上がったのは16時半ごろ。予定していたよりも大幅に時間をとられてしまった。おまけに出来上がってみると、ゴミ箱の収納部分にゴミ箱が入らないという設計ミスも発覚。とはいえ、カウンター下のスペースにぴったり収まり、収納力も使い勝手も1代目を凌ぐ、それなりに満足のいくものが仕上がった。ゴミ箱は収納部分に収まるものに買い換えるまでだ。

途中、案の定と言うか、板取りの計算に間違っているところがあり、改めて正しいサイズにカットしてもらうためにDIY店へ車を走らせる破目になったり、嵌め込みになっている部分のうち一箇所がどうしても噛み合わず紙やすりでその部分を広げたり、何かと苦労させられた。中でも往生させられたのが、作業姿勢の辛さ。何せ出来上がりサイズが2,000mm弱×900mm超という大型のサイズのため、作業に合わせて棚を動かしたり回転させたりすることができない。いきおいこちらが中腰になったり、寝転んだり、作業箇所に合わせて、普段しないような姿勢を強いられることとなった。

で、今朝起きると…、痛い。筋肉痛である。太腿の裏の部分、ハムストリングスにたっぷり乳酸がたまっているようだ。屈んだり、上半身をひねったりという無理な姿勢を脚で踏ん張って保っていたせいと思われる。最近では少年サッカーの練習でも、会社でのフットサルでも、筋肉痛になることは滅多にないのだが。嵌め込み部分を組み合わせるのに、木槌で力任せにぶっ叩いたりもしたから、消費カロリーもけっこうあったに違いない。

それはさておき、気になるのは約15,000円と踏んでいた制作費の方。

部材        ¥11,820
カット代      ¥1,440(一部再カット代含む)
仕上用オイル    ¥0(家にあったものの残りを使用)
L字およびT字金具 ¥930
ビス類       ¥200
筋肉痛       Priceless

計14,590円。というわけで、自作した甲斐あって、どうにか予算の15,000円内に収めることができた。その代償に、俺は現在よちよち歩きである…。



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【2006/09/11 14:34 】 Hobby | コメント(10) | トラックバック(0) |

少年サッカーの保護者会会長さんから携帯にメールが入った。今度の大会の案内状が届いていないかとの問い合わせだった。代表のところへ届くことになっているとのこと。いやぁ、来てないはず…。と思いつつ、家に電話をかける。そういえばテーブルの隅にたくさんのDMを積み上げたままにしておいて、ここ数日それらに眼を通していないが、まさかその中に…。

家人にDMを確認してもらう。なんとぉ!!!来てたッ。しかも、参加料の振込み期限が、今日の15時。あ、過ぎている…!あわてて大会運営事務局に電話をかける。これでチームが出場できないことになったら、大変なことである。子供たち、保護者、コーチの皆になんと言って謝ればいいのか…。

事情を話すと、幸いにも週明けの入金でも大丈夫との返事が。はぁ~~~。とりあえず、会長さんに不手際をわび、週明けでも大丈夫であることを伝え、入金をお願いする。危うくやってしまうところだった。というか、やっちゃったわけだが、何とかなった。

昨今、家に送られてくる郵便物で本当に必要なものなど、それこそほんの数えるほどしかない。大量に送りつけられるDMのせいで肝心なものを見過ごしてしまうと、今回のようなことになる。昔は、家に届けられる郵便物で必要のないものなどなかったような気がするのだが…。



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【2006/09/08 19:17 】 Kids & Kids' Football | コメント(8) | トラックバック(0) |

山口高専生殺害事件で指名手配されていた男子学生が遺体で発見されたとの第一報がネット上を飛び交っている。同僚社員がいち早くそのニュースを見つけて教えてくれた。『手配の同級生か、遺体発見 山口の山中、バイクも』との見出しに、「まだ、本人と断定できたわけじゃないみたいだね」と返すと、傍らから女性社員が「いえ、断定しているところもありますよ」とのこと。うん?早すぎやしないか…。彼女が遺体を男子学生と断定しているという『アサヒ・コム』のサイトへ飛ぶ。確かに見出しには『容疑の男子学生、遺体で発見』との文字。しかし、よく読んでみると本文中では『男子学生とみられる遺体』となっている。やられたね、K嬢。マスコミは時々この手を使う。見出しでぶっ飛ばしておいて、本文をよく読むとそれが憶測や未確認情報であるというのは『東スポ』のお家芸だが、朝日もやるんだね。

念のため『ヨミウリ・オンライン』へ飛んで記事をチェックしてみる。こちらにも「高専生殺害、男子学生の遺体発見』の見出しがある。おいおい、読売もかよ。「こういうのが最近の新聞社の記事の書き方なのか」とあきれながら本文に眼を通すと…!こちらでは「男子学生の首つり遺体」とはっきり断定している。おかしくはないか。『アサヒ・コム』の記事の発信時間は13時17分。一方、『ヨミウリ・オンライン』の記事の発信時間は13時54分。わずか40分足らずのうちに読売の記者は遺体が容疑者本人のものであるとの裏づけを取ったのであろうか。

さらに両者をよく読み比べてみると、朝日の方は遺体の発見場所を『山陽自動車道の下松サービスエリアから西へ2キロ付近の山中。幅約2.5メートルほどの山道にバイクが立った状態で止まっているのを警察官が7日昼前に見つけた。遺体はバイクから数十メートル離れたところにあったという』とかなり詳しく報道している。これが読売になると『7日、周南市に隣接する同県下松市内の山中で見つかった』とあるのみ。発見された時間も場所も朝日に比べると明らかに情報不足。さすがに読売もそれだけではお粗末過ぎると思ったのか、『JR山陽線を利用する場合、下松駅は周南市徳山駅から2駅で約8キロ、徳山高専からは約5キロ離れている」などというどうでもいい情報でお茶を濁している。事件の経緯についても朝日の方がより詳細に書いてある。

つまり、時間的に先に発信された朝日の情報の方が、後から発信された読売よりも詳しいにもかかわらず、遺体の身元に関する情報だけは読売の方が詳しい(容疑者のものと断定している)のである。40分足らずの間に確かな裏づけを取るような入念な取材を行ったのであれば、他の情報も朝日より詳細であっていいはずである。はたして読売が裏づけを怠って憶測で書き飛ばしたのか、警察発表を早とちりしたのか…。もちろんこれも憶測には違いないが、情報の受け手はこうした眼を持っていた方がいい。今さらではあるが、マスコミの情報が真実だけを伝えていると盲信せずに、心してかかったほうがいい。

今朝のテレビでは、おなじみのミーハーサッカーファン(解説者ではない!)松木安太郎が、オシムの監督としての資質に疑問があると述べ、加えて「W杯では“そこそこ”の成績を収めたことがあるが、当時はストイコビッチなどのすごい選手がいたからもっと上にいけたんじゃないか」といった意味の発言をしていた。さらに今回の中東遠征における日本代表チームの最大の功労者は「大熊コーチだ」とのたまっていた。いちいち反論する気力もない。こういうのは心してかかるというよりも、いっそのこと見ないほうがましである。




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【2006/09/07 15:21 】 News | コメント(4) | トラックバック(0) |

残暑が続いている。とはいえ、朝夕の空気からはかつての狂気が消えつつある。秋の気配が感じられる。長かった夏もそろそろその終わりを迎えようとしている。

雑誌『ニューヨーカー』の代表的な書き手だったアーウィン・ショウの作品に『夏服を着た女たち』という短編がある。登場するのは、休日のニューヨーク五番街を散歩する中年夫婦。そして、夏服を着た女たち。休日の過ごし方をあれこれ提案する妻の言葉にも上の空で、街行く女性に気を取られる夫。彼の眼はつい夏服を着た女たちを追う。そんな二人のやり取りが、名手ショウならではの洒脱な筆致で綴られる。常盤新平さんの名訳もこの作品の魅力にひと役かっていると思われる。

あらすじだけを読むと、そんな好奇の眼に自分の姿を晒したくないと感じる女性も多いだろう。自分のパートナーが同じような行動を取ったら許せないと思う女性もいるだろう。しかし、実際にこの小説を読めば、むしろこんなふうに男性から見てもらいたいと思うのではないだろうか。こんなふうに女性を見つめる男性の眼を好ましく感じるのではないだろうか。そう、大人の女性ならば。

都会の風景のひとつとして、いきいきと街を彩る女たち。主人公は綺麗な花を見て綺麗と感じるのと同じように、彼女たちの姿を追い、その美しさに素直に心を奪われる。ラストがまた秀逸である。これぞ、アーウィン・ショウの真骨頂。この一篇を見事に女性の美に対する礼賛へと昇華させている。

街に夏服を着た女性がちらほらと見られるようになるころ。俺は夏の到来を実感すると同時に、この小編を思い出す。そして、この夏、俺の眼も主人公と同じように、何人もの夏服を着た女たちの姿を追いかけた。夏服を着た女たちが見られるのも、あと残りわずかである。



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【2006/09/05 17:13 】 Woman | コメント(8) | トラックバック(0) |

我が家のリビングルームとキッチンの間には、いわゆる対面カウンターが設けられている。リビングルーム側にやや張り出したカウンターの下のスペースがもったいないということで、入居してしばらくしてそこに棚をつくった。書籍類はもちろん、小物やティッシュペーパー、ゴミ箱、冬には石油ファンヒーターを設置するスペースまである、なかなかの自信作だった。

土曜日の夕方、サッカーの練習から帰ると、家人がその棚をつくり替えてくれと言い出した。確かによく見ると、数年前につくったその棚は白いペイントが変色し始めている。家人曰く、今度のものはパインの無垢材にオイル仕上げしたものにして欲しいとのこと。加えて、いくつかの改善点も注文されてしまった。この棚をつくったときの苦労が脳裏をかすめる。これは大変なことになりそうだ。週末につくり上げてしまうとなると、徹夜しなければならないかもしれない。まずい…。

早速、DIY店に下見に行き、使えそうな木材のサイズと価格をチェックして来る。それからスペースを採寸し直し、家人の注文に従って、図面を引く。その図面をもとに、どのサイズの木材をどのようにカットすればいちばんコストが抑えられるかを考えながら、板取りを工夫する。これはもうパズルのよう。ああでもない、こうでもないと何度も図面を引き直す。これだけで深夜になってしまった。出来上がった図面はやたら複雑なものになっている。チェックするたびに、取りきれていない部材が見つかったりして、かなり往生した。

翌日は、朝から今ある棚の分解に取り掛かる。分解した棚板をのこぎりで挽き、再び組み上げて、息子の机の下に収納できるような本棚に変身させる。この作業に、午前中いっぱい取られてしまった。この分では、徹夜作業もいたしかたないか…。

午後、DIY店に出かけ、木材を購入する。購入後、そこの工作室に木材のカットを依頼する。何しろパズルのように複雑な板取りになっていてカット数が多い上に、切り抜き部分もあるなど、工具と腕が限られた素人が切り出すには無理がある。ここはプロの手に委ねるしかない。

工作室の職人さんに板取りの図面を見せる。顔をしかめる職人さん。そりゃ、そうだろう。図面を引いた俺自身が、果たしてこれできちんと板取りができているのか自信がもてないくらい複雑なのだ。完成予想図と図面を照らし合わせながら、細かく説明する。しばらくして、職人さん曰く。「カット数も多いので、木材を引き取らせてくれませんか。来週末に来ていただければ、それまでに切り出しておきます」。なんと、今日中にはできない…。やったぁ!これで徹夜でつくり上げなくてもすみそうである。これには家人も、仕方がないという顔。

かくして俺は、深夜に行われる日本VSサウジアラビアのアジアカップ予選の中継を見られることになったのである。ただし、試合は明け方まで起きて観戦する努力に見合うものではなかった。多分、オシム監督の描いた図面通りの仕上がりではなかったのだと思う。



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【2006/09/04 17:26 】 Hobby | コメント(6) | トラックバック(0) |

今朝の通勤電車の中でのこと。俺は、いつものように堅気の人たちが「痛勤」を終えたあとのすいている電車に乗り込み、いつものように本を広げていた。何ページか読み進んだところで、活字を追う視線の端に何か異様なものを認識した。本から顔を上げてその方向を見やると、斜め向かいのシートに異様な「物体」があった。

そこにあったのは、一人の中学生(と思われる)だった。肘を太腿につき、カラダを前のめりにし、顎を前に突き出して周りを見るともなく眺めている。その視線には、己の生の役割をほとんど終えてしまった老人が他者の人生を傍観しているような、生への無関心さが宿っていた。カラダを支えるありとあらゆる筋肉が退化してしまったのではないかと思われるような脱力感を漂わせ、電車の揺れに身をゆだねる少年。生き物としての存在感の希薄さが、かえって異様な存在感を放っている。

何なんだ、これは…。中学生といえば、未成熟なカラダのうちに収まり切らないほどの生と性を漲らしているものではないのか。おまえは飯を腹いっぱい食ったことがあるのか。大声を出したことはあるのか。誰かを殴りつけたいという衝動に駆られたことはないのか。大切な何かを失って、夜通し涙したことはないのか。美しいものに、魂を震わせたことはないのか。ギシギシと音を立てて軋むような他者との関わりの中に身を晒したことはないのか。射精できるのか。そもそも勃起するのか。行き場のない性欲の暴走に、戸惑うこともないのか。この世に生を受けておきながら、これほどまでに生の実態や生への執着を感じさせない存在があろうとは…。

いつの日か彼が、生き物として、生身の人間として、覚醒することがあるのだろうか。俺は、眼前の少年の姿に薄ら寒いものを感じていた。そして、怖いものから眼をそらすように、再び活字の世界へと戻って行った。リリー・フランキー著『東京タワー』。そこには、手触りと体温の感じられる剥き出しの人間味があった。





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【2006/09/01 16:08 】 Diary | コメント(6) | トラックバック(0) |

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